志貴は考えた。 琥珀の笑顔を見る度に考えた。 琥珀は本当に笑っているのか。心の底から笑えているのか。 一見楽しそうに見える琥珀の笑顔。これが実のところ彼女にとって演 技の一つであると知ったのは、そう昔のことではない。 琥珀と幾年もの時を経て再会した時、志貴は暖かそうな人だと感じた。 彼女の笑顔、佇まい、仕草。全てが朗らかで、穏やかな人柄を思わせた。 そう、全てだった。 どこにも、彼女のどこを取ってみても、負の感情を思わせるものが皆 無だったのだ。 気付いたのは彼女が包丁で指を切ってしまった時。いや、それよりも っと前だったかもしれない。だが意識し始めたのは、彼女が「痛くない と思えば、痛みなど感じないんですよ」というように、穏やかな声で血 の滴り落ちる指を見つめていた時。 琥珀の瞳は、笑ってなどいなかった。だが泣いてもいなかった。 ただ、何の色も見せていないだけだったのだ。 志貴は大いに戸惑った。滴り落ちる、それ以上に流れ出る血は尋常な 量ではなかった。元々そう血に強いわけでもない。特に直死の魔眼に目 覚めてからは苦手にもなっていた。 志貴自身が目眩を憶えてしまいそうなほどの血。 この血を見ても尚、彼女は動揺の一欠片も見せようとはしなかった。 これが違和感。 どうして琥珀はこんなにも平静でいられるのだろう。痛い、痛くてた まらない、こんな言葉すら出てこなかった。 琥珀の尋常ではない様子を見てから、志貴の琥珀を見る目が変わった のは確かだった。自身、そう感じる。 よくよく考えてみると、琥珀の様子は明らかにおかしかった。 秋葉に叱られようと微笑みは絶やさず、血を流しても涙すら見せず、 まるで喜怒哀楽の内、楽以外の感情が刮げ落ちたようだった。 日記と琥珀のことが結びつき始めたのはいつだっただろう。 全身に血液を通すパイプが通り、自分は人形。 そんな日記を見て寒気を憶えた。あれは宣告書。自分は人間を止める、 人形になるという。 どれほどのことが当時の琥珀の身に起こっていたのか知った時、志貴 は育ての父を憎むより先に、琥珀が哀れで仕方がなかった。 同情と呼ばれても構わない。そんな琥珀に暖かな温もりを返して上げ たいと願った。だから琥珀を抱き締めた。 与えられず、与えて貰えず、奪われるのみの、捧げるだけの毎日。 琥珀は与えられることの喜びを知らずに育ってきたのだ。 だから人間全てが虚ろに見えた。中味など無い、虚の古木。 琥珀の裏側、謀を知っても、志貴は琥珀が愛おしくてたまらなかった。 こんなこと、遠野家を自滅させることですら、彼女にとっては復讐では ない。ただ無価値に思えるものを切り捨てるだけの行動に過ぎなかった。 琥珀は告白した。自分がどうしてこんな脚本を作り上げたのか。 理由はないのだと。 だから愛おしかったのだ。抱き締めて、包み込んでしまいたくなって しまう程に。琥珀は、自分の身を守る術すら知らなくて、だから自分の 中に逃げ込んでいた。雛が外の世界を怖がり巣に籠もるように。 在りたいと願う自分すら忘れ、そうすることでしか自分を守ることが 出来ず、外の世界に出た時は憧れていた翡翠として生きることしか出来 なかった。 志貴は琥珀の気持ちに気づけず、あまりに辛かった。もっと早く琥珀 の気持ちを知り、まだ遠野家に居た時に救い出せていたならば。 だが過去は戻らない。昔は振り返ることしかできないのだ。 そして、陳腐な劇、操り人形が舞台でくるくると踊るような劇の上で、 志貴は反転してしまった義妹の秋葉と、死を覚悟する戦いを繰り広げる こととなった。 琥珀は自分を抱くように言った。そうすれば略奪により四季から奪っ た志貴の命の僅かばかりを回復できる、と。 志貴は琥珀を抱いた。 命はほんの少しだけ繋がれた。だが、もう一つ、死を前にしてしなく てはならないことがあった。 琥珀に与えること。ほんの小さな暖かさで良い。琥珀に感じて欲しい ともう一度抱いた。 琥珀は今まで見せていた微笑みではない、温度を持った笑顔で志貴を 見つめた。 その後のことは志貴も思い出したくはない。 大切な義妹の秋葉と死闘を繰り広げ、途中琥珀が死んでしまったよう に思い、義妹を、大切な義妹を殺そうとした。七夜の血を持って秋葉を 滅すべし、血に流れる力が秋葉を圧倒した。 だが琥珀が全てを救ってくれた。どうしても義妹に刃を突き刺せなか った志貴を、義兄を慕う故に殺そうとした秋葉を、琥珀自身を。 志貴も、秋葉も、琥珀も、そして取り残されることのなかった翡翠も、 皆が救われた。劇は終幕となったのだ。 だが、今でも志貴は思う。 琥珀は、今見せている琥珀の笑顔は、一体どこにいる琥珀の笑顔なの だろうかと。 暖かいようにも見える。だが時折ふと遠くを見つめる時の瞳を志貴は 知っていた。穏やかながらも、心だけ遠い地へ馳せているような瞳。 志貴は、この瞳の意味が気になった。 「琥珀さん」 秋葉はお稽古とやらで今日の夕食は志貴一人だった。翡翠は勿論、琥 珀でさえ共に食事をとることは無い。これが遠野家のいつもの夕食だっ た。 夕食を終え、志貴はナプキンで口許を拭うと、この作法は最近ようや く自然とできるようになったのだが、食器を下げる翡翠に続き厨房に引 き下がろうとする琥珀に声を掛けた。 「はい?」 くるっと振り向いた琥珀。いつもの、穏やかで愛おしげに志貴を見つ める表情。だが瞳の奥には見えない悪戯心が隠れていることを志貴は知 っていた。 志貴が屋敷に戻ってきてしばらく、全く気付かなかったもの。そうし てつい先日までは暗い、どろどろとした泥炭のように琥珀の心の底に流 れていたもの。 だが最近は茶目っ気と言えるほど明るい悪戯心になっていた。 何かを企んでいそうな瞳。 琥珀本人は誰にも気付かれてはいないと思っているが、琥珀の最も側 にいる志貴、実の、そして双子の妹である翡翠、琥珀の仕える、古の血 を抱える秋葉の、遠野の屋敷に住む皆が皆琥珀の企みに常に注意を払っ ている。 「どうしたんですか」 微笑みながら小首を傾げる琥珀。 翡翠は常々言う。姉さんは姉さんですから、と。 秋葉は溜息交じりに言う。琥珀は琥珀ですからね、と。 志貴も苦笑しつつ言うしかない。琥珀さんは琥珀さんだから、と。 琥珀のほんの些細な仕草が愛おしいが、時折確信犯的にこんな仕草を するから、志貴は騙されてしまう。 例えばある日琥珀の部屋へお茶に誘われる。それがいつの間にか裏庭 の掃除になっていたりする。志貴はどうしてこうなったのか考えるのだ が、どうしても分からない。何故なら琥珀は一言も「手伝って下さい」 「してもらえませんか」など言っていないから。ただ「志貴さんは優し いですよね」と、それだけである。 秋葉や翡翠の言うには、志貴がお人好しなだけらしいが、本人にそん な自覚は無く、考え込んでしまうだけだった。 「志貴さん?」 琥珀を呼び止めたものの、仕草に目を向けているうちに一人考え込ん でいたらしい。琥珀がどうしたのかと志貴を見つめていた。 「具合でも悪いんですか? ならお薬を調合しないと」 「いや、薬は、今は遠慮しておくよ」 志貴は即答した。琥珀の薬は良く効く反面、時々妙な副作用をもたら すこともあった。例えば青年男児ならどうしても逆らえない効果などを。 これですら、もしかすると琥珀の悪戯なのかもしれない。 「それじゃあ一体どうなさったんです?」 琥珀は何の気なしに訊ねてくる。薬のことを考えただけで背筋に寒気 の走った志貴のことには、きっと気付かない振りをしているのだろう。 志貴自身、分かりきったことだった。 「ええと、今晩さ」 「姉さん、秋葉様がお戻りになりました」 志貴の声を遮って、厨房から戻った翡翠が琥珀に声をかける。いつも の表情で、二人の会話に気付いているのかいないのかは分からない。 「あらあら、お出迎えしなきゃ。翡翠ちゃん、後のこと宜しくね」 と、ぱたぱたと駆けていく琥珀。秋葉付きの使用人としては立派な行 動だろう。だが志貴にとっては少しだけ寂しかった。 そんな志貴の様子を察したのか、 「あの、お邪魔でしたか?」 と訊ねてくる翡翠は少し申し訳なさそうだった。 「ああ、いや、良いんだ。別に大したことじゃないからさ。さて、それ じゃ怖い義妹が来るまでゆっくりとしようかな」 「あら、怖い義妹って誰のことです?」 翡翠の顔を見て、多少冗談交じりに呟いた志貴だったが、思いの外気 を許していたのか秋葉が志貴の後ろに立っていることに気付かなかった。 一瞬の内に身を硬直させる志貴。翡翠は瞳を閉じて黙している。恐ら く志貴の身に同情しつつ、関わらないことを望んでいるのだろう。 一方、ぎりぎりと首を捻って後ろを見た志貴の目に映ったのは、仁王 立ちとまではいかずとも、明らかに威圧感を放ち睨み付ける秋葉がいた。 後ろには琥珀がくすくすと笑いながら二人の様子を見ていた。 「や、やあ、秋葉。今日も一日お疲れ様」 「で、兄さん、怖い義妹というのは?」 有無を言わさず事の真偽を訊ねる秋葉。今、逆らってはいけない。志 貴にそう思わせるだけ秋葉は怒りを向けている。 「いや、何のことか、さっぱりだね、うん」 僅かに残されていたのは、惚けてうやむやにする、それだけだった。 志貴は遠野家での己の無力さを限りなく味わった。 「まあ、この問題については、後でゆっくりと吟味することにしましょ う。ねえ、兄さん」 殊更に志貴への呼び声を強調する秋葉。志貴はこの夜がとてつもなく 長くなるような気がした。 「で、琥珀。帰ってきて早々話があるってどういうことかしら?」 秋葉は今度は若干不機嫌そうに琥珀を見た。 よくよく見てみれば、秋葉は制服のままだった。恐らく学校から稽古 へ向かい、帰ってきて部屋へ戻る間もなく琥珀に呼び止められたらし い。鞄こそ琥珀が抱えているものの、着の身着のままといった感がある。 「はい、申し訳ありません。これは秋葉様抜きに話せることではなかっ たものですから」 琥珀は微笑みながら、秋葉、翡翠、そして志貴を見つめた。 「前振りはいいから、単刀直入にお願い」 秋葉は、あまり上品とは言えない、腕を組みつつ琥珀を睨んだ。 「では、秋葉様、私にお暇を下さい」 朗らかな琥珀の口調。だが空気は琥珀の言葉で一変した。熱くも冷た くもあるような緊張感と、肌にびりびりと突き刺さる怒気。 明らかに秋葉は琥珀の一言で怒りを顕わにしていた。 「琥珀、今、何と言ったの?」 一言一言を区切り、明確に言葉を発する秋葉だったが、言葉の端々が 怒りのためか震えていた。 「お暇を頂きたいと、そう申し上げました」 だが琥珀は秋葉の様子を意に介さないように、全く同じ調子で繰り返 した。分かっていてやっている、志貴にはそう思えた。 秋葉は黙って琥珀を睨み付けている。だが無言の怒気は益々強くなっ ていった。窓の外ではばさばさと烏が飛び去り、地を駆ける猫の足音も 聞えた。恐らく秋葉の怒気のため本能的に逃げ出したに違いない。 普段は動じた様子すら見せない翡翠ですら、今は少しだけおろおろと 二人を交互に見ていた。志貴には気持ちがよく分かった。割って入りた いものの、その後どうすればいいのか。 突き刺すように睨み付ける秋葉と微笑みを絶やさない余裕の琥珀。対 称的な二人だったが、ふぅと秋葉が溜息を吐くと、少しだけ怒気が和ら いだ。 「琥珀、貴女と兄さんの、その、関係というかそういうものには、私は 理解を示しているつもりよ。本当なら、許されるものじゃないけれど、 でも咎めるつもりもないわ。それとも私の世話が嫌になったのかしら? 琥珀には面倒ばかりかけているけれど、でも私には琥珀が必要なの」 秋葉は怒気をはらみつつ、寂しげに呟いた。 言っていることは本当のこと。反転してしまった秋葉にとって、それ を知っている琥珀の薬や血に関する知識が無ければ、衝動を抑えること は難しい。かといって翡翠にはそういった知識が全くない。今琥珀が居 なくなるということは、秋葉にとっては死活に関わる問題だった。 だから突然の願いに皆が戸惑った。秋葉の言ったことを考えなかった 琥珀ではないだろう。 「はい、存じております。でも、それでも、私はお暇を頂かなければな らないのです。秋葉様のことに関しては、週に一度、週末にでも帰って 参りましてお世話をさせて頂きます。ですがそれ以外は、どうしてもし なければならないことがあるのです」 微笑みが消え、真剣な表情で秋葉を見つめる琥珀。久方ぶりに琥珀の こんな表情を見た気がした。琥珀が心の底から願っているに違いない、 そう思わせるだけ強い意志が窺えた。 秋葉はそんな琥珀の瞳を見て、考え込んだ。秋葉も、そして志貴にと っても、腑に落ちないことが多すぎる。 琥珀は、秋葉が琥珀の知識無しでは衝動を抑えられないことを知って いる。志貴は琥珀が自分のことを好いていてくれていると信じている。 だからこそ琥珀の意図が掴めなかった。 「理由は」 「申し上げられません」 秋葉の一言に琥珀はきっぱりと言い放った。一瞬秋葉の柳眉が吊り上 がったが、しかしすぐに短い溜息と共に肩の力を抜いた。もはや諦めた と広言しているようなものだった。 琥珀は笑顔で我を通せる人物であると改めて感じた。 「琥珀、週に一度は必ず帰ってきなさい。私のためだけでなく、兄さん や翡翠のためにもね」 秋葉はそれだけ言うと、一人きりで自室へと戻っていた。 それまで黙っていた翡翠は、そっと琥珀の側へ歩み寄り、心配げに顔 を覗き込んだ。 「姉さん、一体どうしたの?」 翡翠にしては珍しく、困惑した様子を隠すでもなく露わにしている。 琥珀は翡翠に対して優しく微笑み、手を取って言った。 「ゴメンね、翡翠ちゃん。私がいない間の家のこと、任せたからね」 琥珀に訊ねたいことは数多くあった。だが志貴は何を話しかけるでも なく、姉妹の邪魔をすまいとそっと席を立ったのだった。 「はぁ、はぁ」 「はぁあ、はぁ、はぁ」 二人の体温が部屋を満たしている。春というにはまだまだ早すぎる季 節。凍えきった庭先とは裏腹に、半月の差し掛かる夜半となっても、暑 苦しい空気が志貴の身体にまとわりつく。 志貴と琥珀は行為の余韻に浸り、暑さにも関わらずお互いの温もりを 求めて抱き合った。 琥珀の柔らかな肌。志貴はしっかりと逃げられないほどに抱き締めた。 「ふふ、志貴さん、ちょっと痛いです」 微笑みながら、琥珀は負けじとばかり志貴に抱きついてきた。琥珀は 志貴のことをどのように思いながら胸に顔を埋めているのだろう。ほん の少し、疑問に思った。 「ねえ、琥珀さん」 「待って下さい。言いたいことは分かってます」 志貴の声を遮り、琥珀は音を立てるでもなくすっと志貴の唇に人差し 指をあてた。触れるか触れないか程度の感触がもどかしい。 志貴は琥珀の言う通り、言いかけた言葉を飲み込んだ。 「志貴さんは、どうして私が遠野の家を離れるのか、分からないんです よね?」 琥珀は悪戯をした子供のように笑いながら、志貴の疑問を口にした。 正しくその通りだった。琥珀が遠野家を離れる。それだけでも志貴に とっては辛いことだった。愛している女性。いつも、できればいつまで も一緒にいたい。そしてまたいつも暖めてあげたい、そんな女性。 「琥珀さん、俺は分からないんだ。どうしてなんだい? 何故」 と、言いかけて止める志貴。俺の元から離れてしまうんだと、思わず 口にしてしまいそうだった。 こんなことは我が侭すぎる。琥珀はようやく、何に縛られるでもなく、 自分の歩きたいように歩くことを知ったのだ。まだ道は見えなくとも、 琥珀が歩き出したいのなら志貴に止める理由は無い。それが琥珀の幸せ であろうし、志貴の願いでもあった。 「志貴さん、ありがとうございます。誰かに必要とされることの嬉しさ を教えてくれたのは、他の誰でもない、志貴さんです」 琥珀はぎゅっと、志貴を抱き締める腕に力を込めた。 「昔々、一人の女の子がいました。彼女にとって、世界は屋敷の中だけ。 外の世界は窓から見えるそれだけでした」 瞳を閉じて、物語るように呟く琥珀。志貴は黙って琥珀の話に聞き入 った。 「女の子には必要とされる意味がたった一つだけしかありませんでした。 でもこれは女の子にとって何よりも辛いこと。でも双子の妹を守るため、 仕方のないことだったのです」 少しだけ、琥珀の腕が振るえる。辛かった過去。志貴はそっと頭を撫 でた。琥珀を愛しているから、愛している琥珀を救えなかったから。 「外の世界には時々男の子の姿が見えました。彼は陽気で、いつも笑っ ていました。そんな男の子に思ったのです。彼は気付いてくれないだろ うか。女の子がどんな境遇にいて、救い出してくれないか、と」 窓の外、漆黒の闇の中、犬の遠吠えが聞える。もう遠い世界の出来事 のように。 「女の子は自分がここにいる意味が分からなくなりました。もう道具と してしか生きられなかった。何も感じず、何も考えない、ただの人形。 女の子が自分を人形に仕立て上げていく内に、少しして男の子は大きな 傷を負いました。命を失うほどの大きな傷」 ああ、憶えている。一度は死に、生き返った時にはこの目を持ってい たのだから。忘れられるはずがない。 志貴は眼鏡を外した。ありとあらゆるものに、子供の落書きのような 線が走った。 「女の子は思いました。男の子が酷く憎いと。男の子は自分の命を賭け てまで他人を守ろうとした。ではどうして人形になってしまった自分は 救ってくれないのだろう。だから憎くてたまらなかった。ようやく人形 になれた自分の邪魔をしないで、と。でも、残っていた最後の自分の欠 片で、女の子は男の子にリボンを渡しました。どうしてかは分かりませ ん。ただ一言、貸すだけだからね、と言い残して」 琥珀はそっと志貴の眼鏡をとり、上から覆い被さるような姿勢で志貴 に眼鏡をかけ直させた。線はたちまちかき消えた。 琥珀がこの直死の魔眼のことを知っているのか知らないのか、分から ないことだが訊く気も起きなかった。今大切なのはそんなことではない。 そう、少年は全く知らなかった。少女が苛酷な毎日を過ごし、人形に なり果ててしまっていたことを。救えなかったことを。 「でも、志貴さん、貴方が教えてくれたんです。私が私でいること。私 の中に琥珀という名の女の子がいて、この子は幸せを掴んでも良いんだ って。過去があって、今がある。過去に良いも悪いも無い。過去の連続 が今になって、幸せと感じるのはそんな過去があるから」 琥珀は優しく志貴に口吻た。志貴も琥珀を暖かく受け入れる。 志貴は琥珀の背に手を回し、優しく、だが力強く抱き締めた。柔らか な感触が志貴の身体と重なる。左手で琥珀の髪を梳くと、艶やかでしな やかな髪は流れるように志貴の手から零れ落ちた。 「あの頃が不幸せだったなんて言いません。でも辛かった。何もかもを 無かったことにしたいくらいに。でも、あの頃があったから、今こうし て志貴さんと一緒にいられる。過去があるから、今があるんです」 志貴は思った。あの頃救えなかった琥珀を、今、自分は救えているの だろうか。だが、こんな疑問を持つことは、琥珀に対して失礼ばのかも しれない。琥珀は今幸せであるという。ならば救えているかどうかなど、 些末なことではないだろうか。 「だから、志貴さんにも過去に目を向けて欲しい。志貴さんがどこから 来て、今どうしてここにあるのか。志貴さんは、辛いかもしれない過去 に立ち向かう覚悟はおありですか?」 琥珀は愛おしげに志貴を見つめている。 はっと、志貴は驚かされてしまった。志貴は、与えたいと願いつつ、 琥珀からも既に与えられていたのだと。 ここまで聞いて、志貴はやっと気付いた。琥珀が何をしようとしてい るのか、誰のために屋敷を離れようとしているのか。 「琥珀さん、それって」 「ゴメンなさい、これ以上は今は言えません。でもいつかきっと」 志貴の疑問には答えない琥珀。志貴は言葉が喉まで出かかったが、こ ういう時の琥珀は決して答えないことを知っていた。 琥珀は、恐らく七夜のことを調べようとしている。遠野槙久の残した 記録。ほんの少しだけだが、手がかりはあった。 「ふふ、志貴さん、顔に考えていることがすぐ出てしまうところ、可愛 いですね」 突然の琥珀の言葉に、志貴は顔が赤くなってしまった。そんなに表情 に出てしまっていただろうか。 「なら話は早い。琥珀さん、そんなことはしなくて良いよ。遠野志貴は 遠野志貴。それで良いじゃない」 「ダメなんですよ、志貴さん」 琥珀は笑いながら言った。志貴は憮然としつつも琥珀の次の言葉を待 った。 「私は、琥珀は、志貴さんに生きていることの、過去の意味を頂きまし た。それじゃあ志貴さんは? 遠野志貴さんが志貴さんでいるためには、 そのことを知らなくちゃいけないじゃないですか」 考えてもいなかった。志貴は思い出してみる。机の上には七つ夜と刻 まれた刃が残されており、これが幾度と無く志貴の命を救ったことを。 そして自分の中に流れる血が、人外の存在と戦う術を憶えていた。 志貴にはまだ誰も知らない、本人ですら分からない過去がある。琥珀 はそれを調べに行くというのだ。 「でも、わざわざ琥珀さんが行くことは」 言いかけた瞬間、琥珀はベッドから立ち上がり、そのまま月光の降り 注ぐ窓辺へと歩いていった。 志貴は半身を起こすと、琥珀をじっと見つめた。月光が琥珀の白い肌 に反射し、ぼうっと琥珀の姿を浮かび上がらせる。 薄く琥珀の輪郭が浮かび上がり、扇情的ではない、神々しささえ憶え るほど荘厳な琥珀が、そこにいた。 「志貴さん、琥珀は志貴さんに沢山のものを頂きました。今度は琥珀が 志貴さんにお返しをする番です。そうじゃないと、これから先、私は志 貴さんに頭が上がらないじゃないですか」 冗談めかし、微笑みつつ、月光の中琥珀は言った。 恐らく。 琥珀の決意はずっと前に固まっていたのだろう。志貴がなんと言おう とも、琥珀は出ていったに違いない。 沈黙が、月光と闇の間に舞い降りる。 「琥珀さん、一つだけ約束して欲しい」 しばらくの後、ようやく言葉を紡ぎ出す志貴。琥珀は一瞬身を固まら せると、こくりと頷いた。 「必ず、必ずここに戻ってきてほしい。今、遠野志貴が遠野志貴として 生きていられるのは、何よりも、誰よりも琥珀さんのお陰なんだ」 志貴は胸の内から込み上げてくる熱いものをこらえ、辛うじて声を出 した。大切な人が側にいてくれないと何もできないのは、志貴の方だっ たらしい。 だが、琥珀は一粒涙をこぼすと、大きく頷いた。 「はい、絶対に志貴さんの元の戻ってきます。絶対、絶対に」 人は泣きながら微笑むことの出来る、不思議な存在なのだと、志貴は 思った。 二人は今、一時の別れに涙し、お互いの絆を知って微笑んでいた。 夜が明けて、琥珀は旅立っていった。霜の降りた庭先を歩き、そっと 遠野の屋敷にお辞儀をして歩み去っていった。 見送ったのは志貴唯一人。秋葉や翡翠には何も知らせなかった。 後になれば志貴は、二人から散々責められることになるのは目に見え ていたが、琥珀のたっての願いだった。 二人がいれば、また泣いてしまうかもしれない。琥珀の泣いた姿は、 志貴だけにしか見せられないと。 使用人として、姉として、譲れない誇りがあったのだろう。だから志 貴はあえて何も言わなかった。 琥珀は置き手紙の中に、二人に言いたいことの全てを書いてきたとい う。今生の別れでもないから、志貴は笑いながら言った。本来ならば、 秋葉と翡翠を呼ぶのが自分の役目なのだろうが、今はこの大切な人の言 うこと全てを聞いてやりたかった。 「志貴さん」 琥珀は歩き出す前、そっと志貴に抱きついた。まだ朝日が地平線上に ある、眩しく清々しい靄の中、離れゆく前の最後の抱擁。志貴はこの感 触を忘れまいと、背中に回した腕で抱き寄せた。 「琥珀さん、待ってるからね。時々は俺も遊びに行くよ」 「はい、是非」 言葉を交わした後、躊躇うことなく二人は離れた。もう抱擁は必要で はなかった。お互いに、すぐ近くにいるのだと分かっていたから。 「それじゃ、元気で」 「志貴さんこそ、お身体が丈夫ではないのですから気を付けて下さい」 微笑みながら、今にも泣き出しそうな弱々しい微笑みの中、琥珀は踵 を返すと歩いていった。一度たりとも振り返ることなく。 「何があっても、琥珀さんは琥珀さんなんだよ」 志貴は後ろ姿に声をかけた。聞えたか聞えないかは分からない。ただ 志貴がこの言葉を言いたかっただけ。 琥珀の姿が完全に見えなくなるまで、志貴はずっと立ち尽くしていた。 恰もそれが自分の役割であるかのように。 そして見えなくなった後、ふうと溜息を吐いて門の近く、藪の茂る一 箇所を見つめた。 「居るんだろ? 出てこいよ」 志貴は優しく声をかけた。もう誰がいるか知っていた。 藪からは、ばつの悪そうな顔をして秋葉と翡翠が出てきた。 「おいおい、遠野のお嬢様と使用人が、覗きの趣味を持ってるのか?」 「もう、兄さんは相変わらず意地悪です。私と翡翠がどんな気持ちで見 送っていたかご存知のはずでしょう?」 頬を膨らませて秋葉は不満を口にする。翡翠は何も言わないが、表情 で秋葉と同じことを考えていると分かった。 だが結局、二人とも琥珀の顔を立てて出てはこなかったのだ。せめて 別れの一言くらい言いたかっただろうに。 「ああ、ゴメン。秋葉と翡翠に声をかけようとは思ったんだけど」 「はい、姉さんからの置き手紙は既に読んでいます」 翡翠は少しだけ寂しそうに俯いた。 志貴は内容を訊こうとして、止めた。それは琥珀と秋葉、翡翠が知っ ていれば良いこと。興味本位で訊ねていい話題ではない。 「そっか。秋葉も?」 訊ねて、こくりと頷く秋葉。気丈な秋葉にしては珍しく、今にも泣き 出しそうだった。やはりいつも一緒にいた人との別れは辛いのだろう。 そういう意味では志貴より秋葉の方が寂しいかもしれない。 「ま、秋葉は昔から寂しがりやだったからな。琥珀さんがいなくなるっ て知って、一晩中泣いたりしたとか」 しんみりした空気を振り払おうと、志貴が冗談をもらした瞬間、辺り の空気が一瞬で冷え切った。冬だとしてもあからさまに異常な冷気。身 体の芯から来る震えは、この冷気と更に恐怖感から来ているのだと、感 覚的に志貴は悟った。 見れば、秋葉の髪が真紅に染まっている。反転。紛れもなく秋葉は遠 野の血を表に出していた。 「兄さん、何か言いましたか?」 ぎり、そんな音が聞えた気がした。だが二の腕に走る激痛のため、音 がどこから生じたのか分からなかった。 「ぐ、あ、秋葉、その、た、単なる冗談で」 恐らく。激痛に耐える思考の裏側で、志貴は冷静に考えた。本当に秋 葉はもしかしたら一晩中泣いていたのかもしれないと。 「兄さん、冗談は時と場所、所謂TPOをわきまえて言いましょうね」 翡翠はというと、そんな二人の様子を黙ってじっと見つめている。志 貴は何とか激痛にこらえつつ、翡翠に助けを求めた。 「ひ、翡翠」 「自業自得です」 あっさり言い放つ翡翠は、決して近づこうとはしなかった。もしかし て翡翠も同じだったのだろうか。 「ぐ、ぐぁ」 激痛が唐突に消えた瞬間、志貴は全身から汗を流してその場にへたり 込んだ。もう立っている気力すら残されていない。二の腕を見てみると、 無傷ではあるものの螺旋状にどす黒く変色していた。しばらく跡は消え ないだろう。 「ふぅ、乙女心を介さない不出来な兄を持つと苦労するわ。翡翠、私達 は琥珀が残していってくれた朝食にするとしましょう」 「はい、秋葉様。ですが、より正確には甲斐性なしと申し上げた方が宜 しいかと存じます」 「あら、翡翠も上手ね。そうそう、琥珀の代わりに来ることになってい る料理人なんだけど」 と、未だ残る激痛のため意識が朦朧とした志貴を横目に、二人は屋敷 へと戻っていった。それほどまでに琥珀に別れを言えなかったこと、志 貴の無遠慮な冗談が気に入らなかったのだろうかと思う。 「というか、これって八つ当たりだよな」 一人呟く志貴に、冬特有の冴えわたった凍える風が流れてきた。 もう少し経てばこの風も春の香りを運んでくる。琥珀が見つけだして くれるのは、一体いつになるのだろうか。志貴はいつとも知れぬ未来に 思いを馳せた。 幾十の、幾百の月を見つめ、夜を過ごし、琥珀は帰ってくるだろうか。 だがただ一つだけ変わらないものがある。月は姿を幾通りにも変え、 同じ夜が訪れることがなくとも、変わらないものはあるのだ。 志貴はただそれを胸に、静かに身体を横たえることにした。 冴えわたった空気は、それでもなお、身体に残る暖かさを奪い去るこ とはなかった。 了