とりっく・すたぁ
words : 風塵
ふと思い返せば、遠野の家は血塗られている。
現に今ここにある自分。
遠野志貴という人間は一旦死んだ身。
だが命の共有という不可思議な現象で生きてきた。
志貴には特別な力がある。
古き血、遠野には連ならない志貴。
本来は無かったはずの力。
この力は志貴にとって足枷であり、だが武器でもあった。
今、遠野志貴として生きていられるのは、この力のお陰。
過去、遠野志貴が命を賭したのは、力を持つが故の因果。
では未来。
遠野志貴はこの力の代償として何を支払うか。
「そんなこと、今考えることじゃない、か」
志貴はふっと苦笑いを浮かべ、クリスタルのグラスに入っている赤紫色の液体に少しだけ口をつけた。
甘苦い。
微妙な味。
「ねえ、兄さん。ちゃんと呑んでるの〜?」
微妙に頬を赤らめた、志貴にとっての義妹が傍らにすり寄ってきた。
独特な香りを放つ彼女の手には、琥珀色の液体に浸った氷入りのグラス。
からんという音が心地良いのだが、義妹の香りにはいささか胸が焼けた。
「おい、秋葉、お前酔っ払ってないか?」
志貴は少し身体をずらし、火照った身体を引き剥がしたが、それでも秋葉はすり寄ってくるのを止めない。
「酔ってなんかいませんよ〜。秋葉は、ちょーっとだけ、兄さんと一緒に呑みたいと思っているだけです」
絶対に酔っている。
志貴にそう確信させるだけ秋葉の眼差しは朦朧としていた。
熱のこもった視線。
「いやだから実際、今こうしてお前と呑んでるじゃないか」
志貴はずりずりとソファの端近くまで移動するが、秋葉は捕らえた獲物を逃さぬかのように志貴と身体を近付ける。
「いいえ、兄さんは全然呑んでません! それは翡翠が証明してくれるはずです!!」
と、秋葉が指さす先には、最初の一杯で既に反対側のソファに横たわっていた翡翠だった。
いつものメイド服を着てはいるが、かなり酔いが回っているのか、肌は微妙に白から赤へと変わっている。
それが少しだけ艶やかだった。
「兄さんっ!!」
どんっ、という音と共に、秋葉は持っていたグラスをテーブルの上に叩き付けた。
割れなかったのが幸いだと、一瞬志貴は考えてしまった。
これ一つでどれだけの値段になるというのか。
「今、翡翠をいやらしい目で見ていましたねっ!!」
志貴は思わず呑みかけていたものを噴き出すところだった。
げほげほとむせ返ってしまったのが余計に秋葉の感に障ったのか、秋葉は狩猟者かのような瞳を持って志貴を見ていた。
「い、いや、俺は別にそんなことはしてないぞ、うん」
大きく頷いて自分の潔白を主張してみるが、あまり効果はないようだった。
秋葉の視線は益々鋭くなり、髪も次第に紅くなっていた。
「兄さん」
「は、はいっ!」
襟を正してしまいそうなほど、志貴は萎縮した。
これ以上秋葉には逆らわない方が良い。
様々な危機を察知してきた本能が語っていた。
しかし、志貴の緊張にも関わらず、秋葉は次第に泣き顔になっていった。
瞳が潤み、コップを握る手が微かに震えていた。
「兄さんは、翡翠をそういう目で見るのに、私のことはそうは見てくれないんですね」
「は?」
唐突な言葉に、志貴は思わず声を上げてしまった。
絡んだ後は泣き上戸かよ、そんな風に思った時の出来事。
秋葉はすりすりと志貴の胸に顔をうずめ、そっと手に手を重ねた。
「兄さんは、私を妹としてしか見ていないのは知ってます。でも、でも、もう少しだけ、違った風には見てくれないんですか?」
ほろ苦くも甘い問いかけ。
秋葉の体温が直に伝わってくる。
志貴は全身を固まらせてしまった。
何をどう言って良いのか、酔いの回った思考を巡らせても答えが出てこない。
「兄さんは、兄、さん、は」
戸惑っている志貴に寄りかかりながら、秋葉の声が次第に小さくなっていく。
「お、おい、秋葉?」
だが返事は返ってこなかった。
すぅすぅと、小さな寝息を立てている
秋葉に何が起こったのか一目で分かる。
志貴は再び苦笑いすると、そっと秋葉の頭を膝に乗せ、髪を撫でてやる。
髪は既に黒く戻っていた。
これが秋葉の血。
略奪という最凶の力を持つ秋葉と、存在否定という最強の力を持つ志貴。
こんな兄妹が死闘を繰り広げたということを、誰が信じられるだろうか。
そもそも力自体信じられないだろう。
だが力を持って生まれた人間は否が応にも力に引きずられる。
身をもって知った事実。
「ゴメンな、秋葉」
何に対して謝ったのか、既に深い眠りへと落ちてしまった秋葉に分かるはずもないが、志貴自身ですら分かっていない。
様々な出来事、境遇、そんなものに思わず出てきた言葉だった。
「と、あれ?」
志貴は秋葉の髪を撫でている内に、ふと違和感を憶えた。
何か、何かが頭の片隅に引っかかっている。
何が違うのか。
そもそも何と比べて違うのか。
志貴は部屋全体を見つめた。
古い古い振り子時計。
大きな夜を映し出す窓。
秋葉と翡翠が横たわり、志貴が腰掛けているしっかりとした造りのソファ。
磨かれぬいて、透明感溢れる硝子板のテーブル。
クリスタルのグラスは限りなく薄く、軽い。
そして。
「ウィスキーが」
少なくとも志貴には様々な意味で手の付けられないウィスキーの瓶。
これが志貴に違和感を憶えさせた原因だった。
まだ三分の一も空けられていないのである。
確か、秋葉は前に呑んだ時、これを軽く一本は空けたはず。
だのに今回に限って何故だろう。
「志貴さん、どうなさいました?」
疑問符が頭の中で一杯に広がる中、軽く声を掛けてくる女性。
もう、沈んでいない志貴を除き、たった一人けろりとしている、琥珀。
確か今は新しくつまみを用意すると厨房に行っていたはずだ。
「いや、それがさ」
そう言って振り返った志貴の先には、両手で頭を包み込む琥珀の胸元があった。
一瞬何が起きたのか分からない志貴は、はたと自分が今琥珀の胸元に抱き締められているという事実に気付いた。
「こ、琥珀さん」
焦って声に出しては見るが、割烹着の布地のせいで上手く言葉が出てこない。
「あはっ、くすぐったいですよ、志貴さん」
くすくすと笑う琥珀の姿が目に浮かぶようだったが、志貴には体勢的に無理があった。
膝には秋葉を抱え、振り返った首から上は琥珀の胸の中。
両手は何をどうしたらいいものか。
「志貴さんはちょっと優しすぎますから、少しだけ苛めちゃいます」
琥珀はそう言って、更にぎゅっと志貴を抱き締める腕に力を入れた。
呼吸すらままならなく志貴。
むぐぅ、ぐぅ、と声にならぬ声を上げるが、どうすることも出来なかった。
少しだけ苦しく、限りなく心地よい抱擁。
正に天国と地獄のような快感だった。
「志貴さん、どうですか? 気持ちいいですか、それとも苦しい?」
微笑んでいる琥珀の表情がまざまざと志貴の脳裏に思い浮ぶ。
きっともがくのと同時に志貴の中の男が感じる快楽を、琥珀は知っているのだろう。
だが、次第に苦しみが強くなってくる。
いわゆる酸欠。
だんだんと手に力が入らなくなってきた。
途端、琥珀の力が弱まり、志貴はこの感覚から抜け出した。
「ふはっ」
思わず両肺に強く息を吸い込み、一気に吐き出す。
全身の血流が一気に高くなり、落ち着いた。
「い、いきなり何するんだよ、琥珀さん」
恨みがましく琥珀を見つめる志貴だったが、琥珀は余裕を保っている。
志貴が同時に心地よさを味わっていたことを見抜いているのだろう。
「ちょっとだけ、秋葉様といちゃいちゃしていた志貴さんへの仕返し、ですよ」
悪戯心。
そんな他愛ない様子の琥珀。
志貴は憮然としながらも、あの快感に対する罪悪感から何も言い返せなかった。
「あらあら、翡翠ちゃんも秋葉様もこんなところで寝ていたら風邪をひきますね。お部屋へお連れしないと」
話題を変えるかのように、ぱたぱたと動き始める琥珀。
せっせと支度している琥珀に、志貴は茫然と見つめることだけしか出来なかった。
「で、だ」
琥珀の用意や準備は万端で、事もなく翡翠と秋葉を部屋へ連れて行った。
翡翠は琥珀が微妙に起こしつつ、「うん、もう、寝る」と片言のように呟いて一緒に部屋へ戻った。
秋葉はどうやっても起きる気配が無く、琥珀の監視のもと志貴が抱きかかえていった。
そして残った二人。
志貴はこういう状況になった原因を既に予想していた。
「どうして琥珀さんはあんなことをしたんだ?」
「はい? 何のことですか」
臆することもなく言う琥珀は、本当に何も知らないと言っているかのようだった。
だが志貴の感じた違和感が全てを物語っているのも事実。
志貴は自分の直感を今だけは信じた。
「秋葉と翡翠の飲み物に薬を入れただろ? じゃなきゃこんなことは起こらない」
きっぱり言い放つ志貴。
それしか考えられなかった。
「でも翡翠ちゃんはアルコールがからっきしですし、秋葉様も今回は」
「その秋葉が、ね。ここだけが琥珀さんの失敗かな」
琥珀の言葉を遮って、志貴は種明かしをしていく。
「さっき琥珀さんが翡翠を部屋に連れて行った時、翡翠の飲んでいたものを厨房で見つけてね」
え、と琥珀は小さく呟いた。
それはそうだろう、志貴が気付いたのは秋葉の異変があったからであって、翡翠の飲み物を確認したのはついでのようなものである。
「それに秋葉が呑んでいたのは前と同じウィスキー。なのに、さ」
ちらりと棚に戻されたウィスキーの瓶を眺めてみると、やはり三分の一程度しか減っていなかった。
「結局、答えは一つしかないんだよ、琥珀さん」
しばしの沈黙。
夜の帳が降りて、外はもう暗闇。
部屋には煌々と灯る暖炉の火があるだけだった。
秋も深まった今、時代遅れのような、アンティークと言えなくもない暖炉の薪が、ぱちぱちとはぜる。
「あは、ばれちゃいました? 志貴さん、普段はぼーっとしてるようで、本当のところは鋭いんですよね。ちょっとずるいです」
そして琥珀はあっさりと認めた。
ちらりと舌を覗かせて、恰も悪戯が見つかった子供のような笑顔で。
「そうです。翡翠ちゃんが飲んでいたのはただのジュース。天然の葡萄ですから身体に良いんですよ〜。今回は翡翠ちゃん、アルコールを嫌がったから仕方なくなんですけどね」
あはは、と笑う琥珀。
志貴は一応黙って聞いてはいるが、内心は苦笑するしかなかった。
「秋葉様、なんですよね、志貴さんが分かっちゃったのは。私も意外だったんです。完全に反転なさった秋葉様がアルコールに対してはあまり変わっていないことに。だから薬が強すぎたみたいで」
「一応訊いておくけど、その薬は無害なんだよね?」
志貴は念のため確認していた。今の琥珀に限って万が一はあるはずもないが、自分自身を安心させたいだけだった。
「勿論ですよ。琥珀特製のお薬ですから、副作用も何もありません。ただちょっとだけ眠たくなるだけですよ」
笑いながら言う琥珀だったが、その琥珀特製だから気になった、という言葉を志貴は飲み込んだ。
再び沈黙が訪れる。
二人寄り添う中、暖炉の明かりがやけに幻想的に見えた。
「琥珀さん、で、最初の質問。どうしてこんなことを?」
全てを知った志貴だったが、琥珀の動機だけはどうにも掴めなかった。
何故琥珀が二人に薬を飲ませたのか。
今回は、今回の祝いは。
「今回のお祝いの理由、志貴さんは知っていますか?」
琥珀が志貴の思考を読むように先を続けた。
ゆっくりと、この話が出てきた時のことを思い出そうとする。
しかしどうしてか記憶が曖昧で、はっきりした答えが出てこなかった。
「ええと、確か何かのお祝いで」
しどろもどろになりつつ、何とか理由を思いだそうとする志貴だったが、的を得る答えは出てこない。
「ふふ、志貴さん、憶えてなくて当然なんですよ。理由なんて無いんですから」
琥珀がゆっくりと志貴の肩に頭を乗せた。
密着する二人。
志貴の肩に掛かる重みが、今は心地良かった。
「そう、理由もなく、ただ私がお祝いをしましょうと言っただけなんですから」
「そうだったっけ?」
志貴はまだはっきりとしない中、記憶を呼び起こそうとした。
しかしどうしても闇の中、霧の中を模索するように、目の前には何も浮かんでこない。
「一応、皆さんがまた一緒に暮らせる、という口実はあったんですけどね。それは私が皆さんを納得させるための口実。何となく皆さんを誘って皆さんは何となくここに集まった」
琥珀の科白に、志貴はそう言えばと思い至ることがあった。
少し前、ようやく平常の生活に戻りかけていた頃、琥珀がまたみんな一緒に暮らせるんですよねと嬉しそうに言っていたこと。
一昨日、折角ですから明日は腕によりをかけてお料理を作りますねと、琥珀が力を入れていたこと。
志貴の中で自然とその二つが結びつけられ、何となく今日の夕飯時に皆が集まっていた、という次第である。
「琥珀さん、それじゃ全部」
「結果的にですけど、そうなっちゃいましたね。私が色々としましたし。でも私自身には一つだけ理由があったんですよ」
瞳を閉じる琥珀は、安らかに、ただ安らかに志貴の肩に寄りかかっていた。
妨げられないほどの純粋さ。
志貴は寄り添うままの琥珀に、好きにさせておいた。
「たった一つの理由は、一つだけのお願い。今、この時だけで良いです、私の隣に志貴さんが居て、志貴さんの隣に私が居て。それだけ」
呟いた後、琥珀はもう何も言おうとはしなかった。
この時この瞬間だけが琥珀の願いだった。
何だか志貴には本当に他愛のないことに思える。
そんな時間はいつだって、これから先訪れるだろうに。
それは志貴と琥珀が結ばれたあの時から、志貴がこの屋敷に戻ってきて琥珀さんの過去を知った時から、志貴がこの屋敷を追い出される直前に少女がリボンを手渡した時から。
だが、その時間は琥珀にとって何だったのだろう。
志貴には考えの及びもつかないことがあった。
琥珀は他人としてしか生きられない道を歩んできたのだ。
だから、瞬間の邂逅を願う時もあるのかもしれない。
ほんの些細な幸福が彼女にとっては生き甲斐なのかもしれない。
志貴はただじっと琥珀を見つめ、甘い香りのする髪を撫でた。
「琥珀さん、ありがとう」
呟く志貴。
琥珀はぎゅっと志貴に絡ませた腕に力を入れた。
想われていることに対して、たとえ生きていようがいまいが琥珀が命を賭けてくれたこと、何もかもに。
感謝を込めて。
「ありがとう」
志貴は呟いて、琥珀は志貴に寄り添い、夜は更けていった。
「兄さん、これはどういうこと?」
眉間に皺を寄せているのはきっと怒りと共に頭痛が酷いのだろう。
秋葉は何やらぴりぴりとしている。
「志貴様、どういうことでしょうか?」
秋葉と共に翡翠はじっと志貴を見つめる。
冷静な瞳がかえって翡翠の怒りと頭痛の激しさを物語っているかのようだった。
「いや、俺は、別に」
「別に、じゃありません。私と翡翠は兄さんの居る前で突然眠って、気が付いたら部屋にいたんですよ? その時の記憶がはっきり残って、残って」
と、途端言い淀む秋葉。
恐らく記憶に残っているというのは本当で、だからこそ自分の言った言葉を思い出しているのだろう。
赤面しているのが良い証拠だった。
「私は確かに姉さんにお願いしました。昨日はアルコールは無しで、と。姉さんはそれを了解していたはずです」
翡翠は表情一つ変えず言い放った。
時々引きつる目許。
頭痛に抗いつつ、使用人としての誇りが今の彼女を支えているに違いない。
志貴は、琥珀に助け船を求めるが、琥珀は秋葉の後ろで小さくゴメンなさいと笑っているだけだった。
どうやら。
琥珀の薬には副作用が残っていた。
極度の頭痛を引き起こすという。
そしていつの間にか原因は全て志貴にあることになっていた。
考えたくは無いが、志貴の眠っている間に琥珀が何らかの働きかけをしたように思えてくる。
「ええと、それはだな」
「琥珀に助け船を求めても駄目ですよ」
「姉さんに助けてもらおうとしても駄目です」
志貴の言葉を待たず、ばっさりと切り捨てる秋葉、翡翠。
ああ、俺の役割は結局こんなところに落ち着くのか。
志貴の嘆きは誰に聞かれることも無かった。
― 了 ―