「その頃から香里は優しかったんだよ」
名雪はそう言って微笑んだ。
「…あの香里がねえ」
祐一は信じられないといったように首をかしげた。
無理も無いだろう。
名雪の話では、香里はいわゆる『出来杉くん』状態だった。
確かに香里の成績が優秀なことは祐一も知っている。
だが、祐一の知っている香里は、ごく普通の…やや悪戯っ気はあるが、普通の性格だったはずだ。
「うん、優しかったけど、やっぱり今とは違ったかな」
名雪は少し苦笑いをした。
「違うって何がだ?」
「んー…なんていうか、偽物みたいな」
「偽物って…香里本人だろ?」
「ううん。香里は香里だけど、やっぱり香里じゃなかったんだよ」
「…?」
祐一は名雪の言葉を理解しようと思考を巡らせる。
「…だから、無理をしてたってことかな」
「…ああ、そうか」
ようやく祐一は思い当たることがあった。
「なるほどな…」
そしてうんうんと頷くのだった。
-13-
『The more serious she became, the more comical she looked…』
「はあっ…」
香里は中庭に一人座りながら、開いていた英文の教科書をばたんと閉じた。
「まったく、お昼ご飯もろくに食べられないじゃないの」
ごろんと横になり、呟く。
入学して一ヶ月ほど経った頃だろうか。
香里は昼休みの時間ですら、授業の予習をしていた。
そうしないと、不安だったからだ。
「…あたしを構築しているものってなんだろう」
香里は空を眺めながら呟きつづける。
優秀な成績。
周囲の期待。
「…冗談じゃないわよ」
はぁ、と溜息をつく。
それが事実であり、現に自分がそれを維持しつづけようとしていることに対し、香里は溜息をついたのだ。
それに何の意味があるのだろう、と。
しかし彼女はそれを止められなかったのである。
自分を構築しているものを捨てるには勇気がいる。
周りに期待されている以上、あたしはそれに応えなければいけない。
義務感というよりは、強迫観念であった。
失うのは誰だって怖い。
殊更、彼女はそうだった。
「彼女がまじめになればなるほど道化じみて見えた…か」
教科書の翻訳を、自分に言い聞かせるように呟く。
香里は道化であることでしか、自分を構築出来なかったのだ。
少なくとも今の状況では。
…強すぎる責任感が、彼女にとってのストレスの原因だった。
「はぁ…」
再び溜息をつき、ふっと目を閉じる。
目を閉じても考えるのは授業のこと。
「…あー、もう…」
香里の思考は堂堂巡りを繰り返しつづけていた。
「あ、美坂さん」
そんなときだったのだ。
彼女が現れたのは。
「…ああ」
香里は、一度聞いた彼女の名前を反復した。
「水瀬さん」
-14-
「あ、名前覚ええてくれたんだ」
名雪は嬉しそうに香里に近づいた。
…名雪は、始業式以来、初めて香里と話したのかもしれない。
すぐ後ろの席であるにも関わらず、名雪はほとんど香里と話していなかった。
と、いうのも、香里が他の生徒に頼られたり、またなんとなく話し掛け辛いオーラを纏っていたからである。
休み時間の香里は、正真正銘、誰も近づき辛いオーラを出していた。
あたしに話し掛けないで。
あたしは忙しいの。
次の授業の予習をしている香里の姿は、そんな言葉を発しているかのように見えた。
「勉強、してたの?」
そして名雪は寝転がった香里の傍に転がっている教科書を見て、何気なくそう言った。
「そうよ」
香里はうんざりとした様子で答える。
…やはりこの子もそういう見方であたしを見る…と。
しかし、次の言葉は意外なものだった。
「でもやっぱり疲れちゃうよね。だから見てたんでしょ?」
それは何故か嬉しそうに。
「…見てた?」
名雪は答えずに、すっとその視線を上に向けた。
「うん、空…見てたんじゃないの?」
ちら、とその視線を横に向ける。
「…別に」
空は視線に入っていたが写ってはいなかった。
彼女の視線は、自らの思考に向けられていたのだから。
「うーん…面白いんだけどな」
名雪は少し残念そうな口調でそういうと、再び視線を空に向けた。
「ほら、曇ってたくさん形があるよね」
「…そう、ね」
そんな名雪の言葉に、何故か香里は興味を持った。
どうせ視線は上を向いているのだ。
香里は改めて空を眺めた。
「あの雲なんか猫さんに似てるよ」
名雪はぴっとある雲を指差した。
「どこが?」
「ほら、あそこが耳であそこが尻尾で…」
ぴっ、ぴっと雲の一部を指していく名雪。
するとどうだろう。
今まで雲にしか見えなかった雲が、確かに猫の形に見えてきたのだ。
「なるほど…猫ね」
香里は呟いた。
「でしょ?」
嬉しそうに名雪は香里のほうを向く。
「………」
香里はなんとなくそっぽを向いてしまう。
なんでこの子はそんなことで喜べるのだろう。
「…悩みがあるときはね、空を見るといいってお母さんが教えてくれたの」
「?」
再び名雪のほうを向くと、名雪は再び視線を空に移していた。
「…つまり、この広い空に比べたら自分の悩みなんて大したことじゃない…って事かしら?」
そんな言葉をどこかで聞いたことがある。
だけどそれは悩みの解決にはほとんどならないのだ。
悩みの原因は消えないのだから。
「うーん…もうちょっとあるかな」
名雪はそう言うと、再び雲を指差した。
「あれがわたし」
「…水瀬さん?」
ちっとも似てないじゃないの、と香里は思った。
「ううん、他の雲でもどれでもいいんだけど」
そう言うと名雪は、もう一度別の雲を指した。
「こっちとこっちは形が違うよね」
「そんなの当たり前でしょ」
何を言ってるんだろう、この子は。
「うん、当たり前なんだけど…当たり前は難しいんだよ」
「どういうこと?」
…香里は意外だった。
この子はもっと鈍い子だと思っていた。
なのにあたしの分からないことを言っている。
「うーん…例えばわたしは早起きが苦手なんだ」
少し苦笑いをしながら名雪は香里のほうを向いた。
「あたしは早起きは得意よ」
香里は名雪が質問をする前にそう答えた。
「…あはは」
名雪はさらに苦笑いをする。
…そして少し真面目な顔でこう言った。
「でも、美坂さんにとっては早起きは当たり前のことだけど、わたしにとっては難しいんだよ」
「…そうね」
なるほど。
香里にとっての「当たり前」は名雪にとっての「当たり前」では無いのだ。
「確かに難しいわ」
香里は寝転んでいた体を起こした。
まずは言葉の定義からその思考を…
「ああ、でもこれは関係ないのかな」
と、名雪は申し訳なさそうに頬を掻いた。
「…あんたねえ」
香里も思わず苦笑いをしてしまう。
「えっとね、それじゃなくて…」
思い出そうとするように小首を捻る名雪。
香里としては今論じていた論もそれなりに興味のある話なのだが、本人が関係ないと言った以上、言及も出来ない。
「あ、うん。空は心に似てるんだよ」
名雪はぽんと手を叩いた。
「…心?」
それもよく聞いた話ね、と香里は言いかけた。
「あの雲の一つ一つが悩みなの」
「えっ…?」
違う。
香里の知っている心=空の方程式は、雨が降っているときは悲しい、晴れているときは嬉しい、のはずだ。
「どういうことなの?」
「えっとね。心が空だとしたら、あの雲一つ一つが悩みなんだ」
「…悩み」
香里はもう一度空を見た。
「そんなこと考えたら急に空を見るのが憂鬱になったわ」
皮肉めいた口調の香里。
「うー、そんなことないよ。話を最後まで聞いてよ」
「…続けて」
香里は口ではどう言っていても、その視線は空を見続けたままだった。
「…うん。心の中にもやっぱり悩みはたくさんあるんだ」
「………」
嫌味で言ってるんだろうか、と香里は思ってしまった。
「それで悩みがたくさんになったら雨になるの」
「…一般的な例えね」
悲しいのは雨。
悲しいことがたくさん集まって雨になる。
「でも、雨が降った後は空は晴れるよね。空はいろんな形に変わるんだ。心も一緒」
「ええ」
結局はよく聞く例え話らしい。
香里は納得したように頷いた。
「…空はいろんな形があるから面白いんだよ。ずっと晴れてたらつまらないもん」
「まあそれは一理あるわ」
「うん」
名雪は深呼吸をすると、香里のほうへと視線を移した。
「わたしはいろんな美坂さんが見てみたいな」
「…え?」
きょとんとした顔の香里。
「雨は雲が無ければ降らないよね」
名雪はそう言って微笑んでいた。
「………」
香里は少し考える仕草をしたが、すぐに名雪の言っていることを理解した。
「あたしってそんなに悩んでるように見えたのかしら?」
「…うん。美坂さん、なんだか無理してた」
「………」
こんなところにいた。
あたしを見ていた人が。
「あっ。えっとね。余計なことかもしれないけどね。わたしなんだか心配だったから」
はっ、と気付いたようにわたわたと慌てた様子になる名雪。
「…なんで?」
考える前に口が動いていた。
何故、彼女はこうもあたしに構おうとするのだろう。
「…美坂さん、わたしにシャーペン貸してくれたから。いい人だなって」
「………はい?」
香里は目を丸くする。
「それだけ?」
「うん。それだけ」
名雪はきっぱりと答えた。
「………」
香里は絶句していた。
バカだ。この子は。
悪いとは感じていながらも香里はそう思うしかなかった。
「ふ…ふふ…」
そして気付いたときには笑っていた。
「…長生きするわよ…水瀬さん」
「うーん、そうかな? 時々そう思うけど」
名雪はそう言うと、再び空を見つめた。
「…空に雲があるのって当たり前だけど、見ないと気付かないよね」
「そう…ね」
香里も空を見た。
「最初に雲を見つけた人って凄い人なのかもね…」
なんとなく香里は呟いた。
悩みは誰でも持っていること。
当たり前のこと。
だけど、それに気付いた人。
それは自分を見てくれていた人。
「水瀬さん、お昼まだ?」
香里は視線を名雪のほうへと向けた。
「あ、うん」
名雪はこくりと頷く。
「じゃあ…せっかくだし、食べに行きましょうか?」
香里は微笑んだ。
「うんっ」
名雪は笑顔で頷き、
「よかった、美坂さんやっぱり優しいよ〜」
と喜んでいた。
「別に大したことじゃないわよ…ああ。あと美坂さんっていうの止めてくれる?」
「え? じゃあなんて呼べばいいかな」
そんなこと決まってるじゃないの。
「香里、よ」