「あーもうっ!」
香里は苛立った様子で枕を布団に叩き付けていた。
その度に枕の形が変わり、埃が舞う。
「お…お姉ちゃん、何やってるんですか?」
そして香里の妹、栞は苦笑気味にドアの前で固まっていた。
勉強を聞きに来たのであるが、そこにいたのは見慣れたようなそうでもないような姉の姿。
…家では、そうおしとやかである必要も無いのだが。
妹の前では香里は案外クールな外面を気取っていた。
「…………別に」
よって急な妹の出現に、少し顔を赤らめ、振り上げていた枕を降ろす香里。
「何か用?」
と、体を栞の正面に向けた。
「…えと」
栞は、少し遠慮がちに俯いたが、すぐにきっと正面を向いて香里に聞く。
「お姉ちゃん、名雪さんの家で何かあったんですか?」
「…この世の地獄を見てきたのよ」
香里はうんざりとした様子で答えた。
「えぅ」
栞はその言葉に身を振るわせる。
…一体姉の身に何があったのだろう。
「灰色の目覚めって知ってる? 栞…世界が灰色に見えるのよ…?」
据わった目でぽつぽつと呟く香里。
「お、おねえちゃん…」
そんな様子の姉に、さらに怯えてしまう栞。
どうやら自分の知りえない恐怖が水瀬家であったらしい。
栞は原因が甘くないジャムであることを知らない。
「知らない」ということはさらに恐怖なのだ。
ひょっとしたら…あるいは。
栞の頭の中では様々な可能性が展開されていた。
「あーもう…思い出したらまた腹立ってきたわ…」
再びばふばふと枕を叩き付け出す香里。
「お、落ち着いてくださいお姉ちゃん」
「…………」
香里は栞の言葉にまったく耳を貸さない様子。
「…はぁ」
栞は小さく溜息をつく。
「お姉ちゃんにも名雪さんみたいなところがあればいいんですけど」
そんな栞の言葉にぴた、と香里の動きが止まった。
「どういう意味よ」
「どういう意味って…」
栞は戸惑ってしまう。
名雪のように、大雑把と言うか、何も考えてないと言うか、分かりやすく言うとぼーっとしているというような…
「精神的余裕が欲しいんです」
まあ、良い言葉にすればこんなところなのだろう。
「…あたしのどこに余裕が無いって言うのよ」
「えぅ」
確かにそれを暗示している言葉ではある。
「名雪さんって結構物事を穏便に考えられると言うか…」
他の言葉を見つけようとする栞。
が、考えれば考えるほどそれは名雪の悪口になってしまうか、逆に香里への嫌味になってしまいそうだった。
何かもう少し…
………。
と、栞の頭に、ひとつの疑問が浮かんだ。
「…お姉ちゃんと名雪さんって全然共通点ないですね」
それを聞いた香里は、考える仕草も見せず。
「そりゃ似てないでしょうよ」
そう言ってはぁ、と溜息をついたのだった。
「あの子はとろくて鈍くて、すぐ寝るわ、すぐ忘れ物するわ…」
眉を潜めながら、普段の不満を愚痴りだす香里。
「…お姉ちゃんと名雪さんって、付き合い長いんですか?」
栞は余計なことを言ってしまったかな、と内心で思いながらも、ついこう聞いてしまう。
「付き合い、ね…いつからだったかしら」
すると香里の苛立ちの絶頂だったような顔が、ふと緩んだのだ。
「そうね…大して面白いものじゃなかったわ」
そして香里は思い出す。
名雪と出会った、その日のことを。
-8-
春。
それは出会いの季節であり、別れの季節。
美坂香里は、その年高校生になった。
着慣れない制服、新しく通う校舎。
校門の桜は咲き乱れ、ふわりと暖かい風が凪いでいた。
こんな日を、花見日和というのではないだろうか。
…が、香里を含め、新入生一同はそんなことよりも、校長先生の話が早く終わる事を考えていたのだった。
-9-
「…以上で新入生の誓いの言葉を終わります」
香里は台本どおりの、暗記してきた台詞を言い終え、ぺこりとお辞儀をした。
ぱちぱちぱち…と来賓席から拍手が上がる。
新入生の誓いの言葉。
誰もそんなことは誓ってないと言うのが新入生一同の本音なのだろうが、世の中には建前と言うものが必要なのである。
それは誓いの言葉を言っている香里自身が一番理解していることだった。
『君に誓いの言葉を言ってもらいたいんだ』
…入学テスト首位の成績の報告と共に来た高校の教師の言葉はそんなもの。
「ええ、喜んで」
誰が喜んでこんなことを承るのだろう。
言葉のあやとはよく言ったもの。
環境は人を変える。
いや、変わらざるを得ないのだ。
香里は。
良くも悪くも人に頼られる存在だったのだ。
…最初は本当に妹にいいところを見せたかっただけであった。
100点を取ったとき、親は喜んでくれた。
そして栞も喜んでくれた。
それだけでよかったのだ。
…いつからだろう。
中学で、二年生の真ん中辺りだろうか。
教師が名門と言われる高校の受験を薦めてきたのが発端だったかもしれない。
『おまえの成績なら必ず受かる』
確かにそれは間違ってなかった。
香里は中学でも常に主席であったのだ。
それは彼女の才能であり、努力の賜物である。
…が。
名門校に通うことは彼女には興味の無いことであり。
香里はそれを断り、近所の高校に通うと言った。
『この中学校からこの高校に合格者が出ることは非常に名誉なことなんだ』
そして香里はクラスで時折こう言われるのが少しだけ嫌だった。
「勿体無いよね。美坂さんなら絶対受かったのに」
と。
絶対とは100%ということだろうか。
ならそれはあり得ないのだ。
『絶対』という言葉は『絶対』あり得ない。
有名高校に、白紙で解答用紙を提出した人間がいた、という噂が流れた。
一時その噂は広まったのだが、やがて受験の波へと押し流されてしまった。
香里は職員室に呼ばれた。
合格を祝われるのではない。
担任である教師に怒られたのだ。
『どうしてあんなことをしたんだ?』
と。
香里は答えた。
「あたしがあたしであるためですよ」
勿体無いこと。
少なくとも、周りにはそう見えたことだろう。
しかし彼女には確固たる意思があったのだ。
あたしはあたしのやりたいことがある。
…香里が選んだ高校は、妹が行きたがっていた高校であった。
-10-
入学当初、水瀬名雪は美坂香里のことを全く知らなかった。
中学が違ったのだからそれは当然のことである。
始業式の後。
体育館で半分夢の世界にいた名雪は、教室に入るとようやく目覚めたかのように背伸びをした。
「んー…やっと終わったよ…」
「ねえ」
「?」
名雪の目の前にはプリントがあった。
もう少し顔を上げると、プリントを手にした香里の姿が写る。
「あ、ごめんね」
前から配られてきたものだと気付き、名雪は慌てて受け取った。
「………」
香里は名雪がプリントを受け取ると前に向き直り、プリントにぱっと目を通す。
プリントは記述式の自己紹介用プリントだった。
下らないわね、と思いながらも香里は自分の名前を書き始めた。
「…あ…筆箱忘れちゃったよ…」
すると後ろから声。
「うー。どうしよう…困ったよ…」
香里は気にせずにカリカリと筆を走らせる。
「鞄の中に入れたと思ったんだけど…あーひょっとして机の上に…」
「………」
くるりと香里は振り返った。
「…使っていいわよ」
と、自分の使っていたシャーペンをぽんと名雪の机の上に置き、また正面に向き直る。
「あ、ありがと」
「別に気にしないで」
鬱陶しかっただけだから、と香里は心の中で付け足した。
「わたしは名雪。水瀬名雪だよ」
後ろから聞こえる名雪の声。
「…美坂香里」
香里は溜息混じりにそう答えるのだった。
-11-
「昔のお姉ちゃんって不良さんでしたよね」
いくぶん落ち着いた雰囲気になってきた姉に、栞はそんなことを言った。
「はあ?」
香里は信じられない、といった口調で栞を睨む。
「えぅ。いわゆるリーゼントとか暴走とかする不良さんじゃなくて」
「…何よ」
栞は少し考える仕草をした。
「なんていうか、毎日カリカリしてました」
「怒りっぽかったってこと?」
「はい…今もですけど、全然昔に比べたらなんでもないです」
「…ふーん」
にっこりと妹を見つめる香里。
「えうー。ほんろのほほれすー」
栞はほっぺたを引っ張られながらも反論する。
「…まあ確かにね」
香里はぱっと手を離した。
「痛いですー。酷いですー」
うーうーとうなる栞。
「あの頃は…あたしのことをわかってくれる人がいなかった。それが辛かったのよ」
「えぅ」
高校に入学してすぐ、香里は学級委員長にされた。
やはり理由は学年主席だから、ということである。
香里は断れなかった。
…周囲の目。
期待されている目。
負い目があった。
有名高校の受験を蹴ったこと。
先生はとても落胆していた。
それはあたしのせい。
…だから期待には答えないといけなかったのだ。
そうすることで、自分が安心出来たから。
最初は、それでよかった。
「だけどねー。やっぱり人に頼られるって嬉しいことだけどストレスも溜まるのよね」
香里は溜息をついた。
「そうなんですか?」
「当たり前でしょ? なんていうか…勉強していて当たり前。宿題はやって当然。先生に指されたら答えなきゃいけない。…そんな義務感って言うか…なんていうか…わかる?」
「す、すごく大変そうです」
栞は表情を歪めた。
自分ならそんな生活にきっと耐えられない。
「そりゃあもう…言葉に出来ないわよ」
香里も表情を歪めた。
しかしその時、香里は栞に自分の置かれている状況を告白出来なかったのだ。
…栞はその当時、病気の克服のため入退院を繰り返していた。
既に酷な状況に置かれている人間に自分の事を話したところで解決にはならない。
特に栞は…自分より辛い状況に置かれている。
香里はそう思っていたのだ。
自分の両親も同様。
病に侵されている我が子を見ていて、心労が無いはずがない。
香里は心中を告白できる場所が無かったのだ。
…ストレスは自分の体に重く圧し掛かりつづける一方だったのである。
「でもね。あたしをわかってくれる人がいた」
「祐一さんですか?」
「…違うわよ」
香里は僅かに頬を赤らめた。
確かに、祐一も香里の繊細な内面を見抜いた数少ない一人である。
「名雪よ名雪」
「…お姉ちゃん、変な趣味とかじゃないですよね」
ぼか。
香里の鉄拳が栞の頭を直撃する。
「えうー。軽いジョークです…」
「はぁ…もう話そうと思ったけど止めようかしら」
「あーっ。聞きたいです聞きたいです。お願いしますー」
「…まあいいけどね」
溜息混じりに香里は話し始めた。