「大晦日前に、俺と秋子さんで買出しに行っただろ?」
祐一の部屋。
仕方なく祐一は事の真相を名雪に話していた。
「うん」
「んでな。その帰り道の話だ…秋子さんがな。突然買い忘れがあるって言い出したんだよ」
「買い忘れ?」
「…ああ。みかんを買い忘れてたんでな。それを買っておいてくださいって言われたんだ」
「それで、どうしたの?」
「それで、『俺が行きましょうか?』って言ったんだ。俺は秋子さんからお金を貰い、俺はみかんを買いに行った。そこまではいいな」
祐一はぴっと中指を立てた。
ここからが重要だぞ、という意味らしい。
「問題は次だ。秋子さんと俺は商店街の入り口で待ち合わせをしていた」
「うん」
「俺が入り口についた時には秋子さんはそこで待ってるはずだったんだが…いなかったんだよ」
「お母さんが? 珍しいね」
「ああ…でもすぐに秋子さんは現れた…んだがな。現れた秋子さんは袋を持ってたんだ」
「…袋?」
「ああ、袋だ。それで俺は何気なく『何を買ったんですか?』って聞いたんだが…その答えが…」
それを聞き、名雪は理解したように頷いた。
「企業秘密、だったんだね」
「…ああ」
一応の補足をしよう。
秋子は名雪の母親であり、当然のように水瀬家の食卓に並ぶのは彼女の手料理である。
それだけならごく普通の話なのだが、彼女の料理は、そのへんの三流レストランの味など比べものにならないほど良質なものである。
普通の料理は当然、それどころかラーメンを麺から作れるほどの技量の持ち主だった。
その料理の腕は有名であり、ご近所の主婦たちの尊敬を受けている。
…そして、同時に語られない秘密があった。
名雪を含め、ごく一部しか知らない事実。
秋子にはお気に入りの一品がある。
オレンジ色のジャム。
断っておくがマーマレードではない。
外見はそう見えるのだが、秋子曰く『甘くないジャム』らしい。
それが。
普通の人間の味覚には理解出来ないほど。
いわゆる、『不味い』料理であり、もう二度と食べたくないような味だったのである。
…そして企業秘密。
それは秋子があのジャムについて聞いた際に、必ずといっていいほど答える言葉。
そして結果論ではあるが、数日後の水瀬家にオレンジ色のジャムが出されたこと。
謎の袋、謎のジャム。
二つの謎は密接しているに違わなかった。
事実、祐一は『企業秘密』という言葉だけで言い知れぬ恐怖を感じ、旅に出たのだから。
そして二人はお互いに眼差しを見つめあう。
思っていることは同じ。
あのジャムの材料は一体何なのだろう…と。
そして、それを聞かないほうが幸せだということも知っていた。
「…それなら…どうしてわたしも連れて行ってくれなかったの…」
まるで駆け落ちの約束を破ったかのような口調。
名雪の瞳は悲しみで潤んでいた。
「わたし、頑張ったんだよ…いつか祐一が助けに来てくれるって…信じてたのに…」
…祐一が行方を眩ましていた数日間の間、名雪の朝食は全てあのジャムだったらしい。
「許してくれ名雪…」
流石に佐祐理さんの家とはいえ、二人も厄介になるわけにはいかなかったんだ、と心の中で呟いた。
ちまみに言うまでも無いだろうが、佐祐理とは、祐一の一つ上の女性であり、近所にすんでいる女性の名前だ。
屈託の無い笑顔が印象的で、人見知りをしない性格である。
また唐突な祐一の「泊めてくれ」という頼みをあっさりと承諾したほど寛大でもある。
そして周辺では知らない人間はいないほどの富豪「倉田家」の娘でもあるのだが。
旅に出る、と言っていた割に祐一は案外身近にいたらしい。
…しかしおそらく、名雪を連れて倉田家に逃げようといったとしても、そんな申し出を名雪自身が承諾しなかっただろう。
名雪とて恋する乙女の一人である。
他の女性、しかも祐一に好意以上の感情を持っている人間の家に厄介になれるほど精神的に大人でもない。
そんな祐一の判断の結果、あまり好ましくない事態を招いてしまったのだが、もし倉田家に名雪を招いたのであれば、今以上の惨劇が目撃できたに違いない。
最善が最良ではないとはよく言ったものだ。
そんなこんなで名雪は新年早々ジャム地獄を味わうことになり、祐一は平和な新年を過ごしていたのである。
祐一はそろそろほとほりが冷めたであろうと思い、帰ってきたのだが甘かった。
事態は考えていた以上にこじれてしまっていたのである。
「わたし…わたし…」
ぽろぽろと涙を零し始めた名雪。
悪夢のような数日間の記憶が蘇り、感極まったらしい。
「名雪…」
祐一は名雪を強く抱きしめ、やがて二人の時間に…
-5-
「イチゴサンデー♪ イチゴサンデー♪」
十数分後、喫茶店、百花屋にて上機嫌に謎の歌を歌っている少女と溜息をつく青年の姿が百花屋の店員によって発見される。
新年早々から仕事を始めている百花屋を、祐一は心の中で深く恨むのだった。
今年も祐一の財布の中身の将来は暗そうだ。
「でだ」
「え? 何?」
名雪は、祐一が代金を支払うことになっている、好物のイチゴサンデーを幸せそうにすくっていた。
「…帰る」
立ち上がり、くるりと踵を返す祐一。
「わ、冗談だよ〜」
「…本題に入ってもいいか」
溜息をつき、再び腰を降ろす。
「うん」
名雪はこくりと頷く。
顔は真剣なのだが咥えているスプーンが緊迫感を台無しにしていた。
「どれくらいアレを食わされたんだ香里は?」
「ええと…」
名雪は少し考える仕草をした後、とても悲しそうな顔をした。
「…一瓶」
「マジか…」
絶句、という言葉が最も相応しかった。
あのジャムを一瓶。
祐一もあのジャムを経験したことのある身だ。
香里の「ど根性」ランキング順位がすさまじい速度で上昇していた。
このランキングは祐一の頭の中で独断と偏見により作られているものである。
ちなみに現時点でのこのランキングの一位は、辛さ20倍キムチラーメン早食いの新記録を打ち立てた同じクラスの七瀬留美嬢だったりするのだが。
ランキング上位に女性しかいないのは、喜んでいいのかよくないのか微妙なところである。
「わたしは…半分で駄目だったんだけど」
「名雪…おまえも頑張ったんだな…」
「でも祐一は逃げたんだよ」
「…イチゴサンデーあと何杯だ」
「あと二杯で許してあげる」
「わかった…」
今回ばかりは、祐一も自分の不甲斐なさを認めるしかなかったようだ。
その後、ひたすら沈黙している祐一と、イチゴサンデーを食べつづける幸せそうな名雪の姿は、周囲に実に奇妙な印象を与えたことだろう。
だが、本人たちにとってはどうでもいいことだった。
-6-
「…もう満足だろ」
祐一はやけ気味に言い放つ。
「うん、美味しかったよ」
目の前には5つほどの空の容器と、祐一が飲んでいたコーヒーのコップが置かれていた。
当然、容器を空にした主は名雪である。
「じゃあ今度こそ本題に入るぞ…」
「香里の話だよね」
祐一はこくりと頷く。
「香里はそれから口を聞いてくれないんだな」
「…うん…何がいけなかったんだろう」
そりゃジャムだ、と祐一は心の中で呟いた。
他に原因は何も思いつかない。
「やっぱりジャム…だよね」
名雪もその結論に達したのか、戸惑いながらそう口にした。
「その通りだ」
「わ、わたしどうしたらいいかな」
あっさり認めてしまう祐一に、名雪は一瞬戸惑ってしまう。
わたしが結論に達するまでに、こんなに時間がかかったのに。
…やっぱりわたし、鈍いのかな、と内心でショックを受けていた。
「そんなもん、謝ればいいだけだろ」
祐一はそんな名雪の内心に気付くわけもなく、こともなげに言った。
「だ、だって香里、怒ると怖いんだよ」
しかし名雪はそれを躊躇しているかのような言葉を返す。
「…それはなんとなくわかる気がするな」
と、祐一もようやく真面目に考えるように自分の両腕を組んだ。
祐一も、一度香里を怒らせたことがある身だ。
それこそ一週間以上『無言のプレッシャー』に恐怖し続けた事を思い出し、身震いをした。
しばらく考え込む二人。
「…とりあえず」
最初に口を開いたのは祐一だった。
「とりあえず?」
「おまえと香里って似てないよな」
「…それ、全然関係ないよ」
名雪は少し困った顔をした。
まったく関係ない言葉を言われたら、誰でもこんな顔をするだろう。
「いや大いに関係あるぞ」
しかし祐一はやけにこだわっているようだった。
「何が関係あるの?」
「そもそも…なんていうんだ? うん。おまえらがどうやって出会ったのか想像が出来ない」
「…うーん」
少し考える仕草をする名雪。
「別に、普通だったよ」
と、やや照れくさそうに言った。
「むぅ」
その言葉は祐一の興味をさらにそそったようだった。
「それでもいいから話してみろ。何かの糸口になるかもしれないぞ」
「うーん…なんだか、恥ずかしいな」
名雪は少し頬を赤くしながらも、「糸口になるかも」という言葉に惹かれたのか、その時の事を話し始めたのである。
「高校に入学したばかりのときの話なんだけどね…」