商店街。
そこには様々なものがある。
それは店であり、商品であり、人であり、思い出である。
この街も例外ではなく、そうなのだ。
ある少女は空を見ていた。
何をするわけでもなく、ただぼうっと空を眺めていた。
商店街の喧騒。
そんな中で、彼女は空を眺めていた。
…夕焼け色の空は綺麗に晴れていた。
きっと明日もいい天気。
彼女がそんなことをしていたのには意味があるのだ。
-1-
時は冬。
年賀状や大掃除などの季節的な行事を終え、丁度一息ついた頃の話である。
そして、話は少し前の出来事から始まる。
それは一本の電話だった。
「ねえ、香里。今日良かったら泊まりに来ない?」
水瀬名雪の親友、美坂香里はそんな友人の誘いに少し思考を巡らせた。
香里は名雪のクラスメートであり、付き合いも長い。
断る理由も特には無いのだが。
「まだ、相沢君帰ってきてないの?」
香里はそんな質問をした。
そして電話の向こう側の名雪は、おそらく顔を曇らせながら、こう答えたのだった。
「うん、まだ…」
この会話の元凶である相沢祐一は、水瀬家の居候である。
彼が居候をしているには事情があった。
両親の海外赴任。
そこで祐一の取るべき選択は二つ。
両親についていくか、日本にとどまるか。
彼は日本にとどまることを選択し、母方の親戚である、水瀬秋子の家に居候をすることになっていた。
祐一は水瀬家にかれこれ一年ほど居候している。
が、先日からその相沢祐一が、「俺は旅に出る」と数日行方を眩ましていたのであった。
秋子…彼女は名雪の母親である。
は、「祐一さんも男の子ですから。唐突に何か大きいことをしたくなるものですよ」
と微笑んでいたのだが。
そうでなくても、祐一の行動パターンというものは周囲にとってつかみ辛い。
本人が意図していようがいまいが、それは周囲に笑いを呼び、感動を呼び、事件を呼ぶ。
彼はそういう人間なのだ。
さて。
その祐一が、よりによって従妹で、同居人である名雪にそのことを言わず旅に出たのがよほど気に食わなかったらしい。
名雪はここ数日、電話越しにずっと香里に祐一のことを愚痴っていたのだ。
…それでも香里は香里で、そんな祐一の行動に色々想像を膨らませて楽しんでいたし、いつの間にやら雑談に変っていたりで、さほど悪い気分ではなかった。
そして今日のこの誘い。
「やっぱり相沢君のこと、心配?」
「それは心配だけど、祐一はきっと帰ってくるから」
「そう」
その答えを聞き、香里はなんとなく安心した。
祐一と名雪は信頼しあってるんだな、と。
「お母さんがご飯作りすぎちゃったんだ。癖みたいな感じで」
「なるほどね…それじゃおこぼれに預かるとしましょうか」
どうやら名雪は精神的な問題で悩んでいたりするわけではなさそうだ。
と、すると祐一のいないせいで、退屈を弄んでいるらしい友人の誘いを香里が断るはずが無かった。
香里は名雪の誘いを快く承諾する。
きっと実際に会っても相沢君の話しかしないんだろうな、と思いながら。
-2-
もしかするとこんな言葉を聞けるのは一生で一度きりなのではないだろうか。
…そんなことを改まって聞くのも奇妙なのかもしれなかった。
しかし、唐突な出来事というものはそれらの一般常識を時々崩してしまうものらしい。
「…もう一度言ってくれる? 名雪」
香里は少し頬をひくつかせながら、親友に向かって微笑んでいた。
その言葉は、彼女にとってはよほど信じられない言葉だったらしい。
「ねえ、香里。わたしたち…友だち…だよね」
「そうね…」
いや。
香里の憤りの対象はもう少し別の場所にあったらしい。
にこにこと微笑んでいる女性の姿。
いつもならば、見とれてしまうほどの綺麗な微笑み。
秋子の微笑みは、今の香里にとって悪魔の微笑みに見えた。
「どうしました? 香里ちゃん」
「いえ…」
全てを諦めたかのように溜息をついた後、香里は目の前のものを見据えた。
…さくさくに焼かれたパン。
焦げ目も程よく、良い香りが辺りに漂っている。
正月の、和食だらけの食事に飽き始めた頃でもある。
香里が水瀬家に泊まりに来た翌日の朝の出来事。
元々、名雪も香里も朝は洋食派だ。
これだけならば、さぞ楽しい朝食の時間になっていたことだろう。
少しだけ、問題があった。
…ひとつは、この家の居候、相沢祐一がこの場にいなかったこと。
そしてそれが香里を名雪が呼んだ原因だったこと。
今となって香里は、突如俺は旅に出る…と行方をくらましていた祐一の心境が理解できた気がするのだ。
さくさくに焼かれたパン。
そして。
その上に塗られた鮮やかなオレンジ色の…
「たくさん作り過ぎてしまいまして。助かりましたよ」
「あは、あはは…ありがとね、香里」
「…………」
愛想笑いすら満足に出来ず、香里はこうささやくのだった。
「後で覚悟してなさいよ…」
-3-
よって。
のほほんとした顔で帰宅してきた祐一への名雪の第一声は、こんなものになったのである。
「酷いよ祐一」
「あん? 何の話だ?」
帰って来て早々に、不満げな顔をしていた従妹の姿に祐一は一瞬驚いた。
「祐一、絶対知ってたでしょ」
どうやら朝食のことを言っているらしい。
「…知らないな」
「嘘だよ。だから唐突に旅になんか出たんだよ」
「さあ、なんのことやらさっぱりだ」
大きく両手を広げ、無実をアピールする祐一。
「香里、あれから口聞いてくれないんだ…」
名雪はとても悲しそうな顔をした。
「香里までアレの被害に巻き込んだのか…」
祐一もどこか遠くを見ながら呟く。
「…やっぱり知ってたんじゃない」
普段よりも二トーンほど下がった声。
相当怒っているらしい。
「は、図ったな! シャア!」
祐一は正月の特番か何かで放送されていた、『懐かしのアニメ名言集!』からのセリフを引用する。
…が、次の一言で撃沈せざるを得なかった。
「切り札は最後まで取っておくものなんだ」
すっと祐一の目の前に、何かの瓶を差し出す名雪。
「なんでも聞いてくださいませ、名雪様」
祐一は名雪の前にひざまずいた。
…それこそ、今回の騒動の元凶の、オレンジ色のジャムであったのである。